まずはこの動画を見て欲しい
この動画を見て懐かしいと思ったのはたぶん、40代以上でしょう。
これが作られたのが平成元年 いまから30年前です。
さて、この動画はこちらのブログで紹介していました。
非常に興味深く、熱心に読んでしまいました。
記事ではこんな事が書かれています。
これらは30年経った今だから「失われた」と思うわけだが、そこには「便利さによって失われた」という背景がある。つまり、便利さの象徴である新幹線もまた、これらの人の気持ちを失わせる可能性があったわけだ。
まだ自動改札でなかったり、電光掲示板でなかったり、東海道新幹線にも二階建て車両があったりと、技術的な相違点があるが、そういう点ではなくてもっとも重要な相違点がある。
「現代人は待ち合わせで焦らない」
そうです。
この当時なら待ち合わせといえば駅の伝言板に書くか事前に連絡をしてきっかりその時間に行かなければ遅れたことを知らせるすべもない。
携帯電話も誰もが持っていない時代で、お笑いで使われていた
シモシモ
のあの巨大なショルダーフォンの時代。
話が横道に逸れるが、私が初任で勤めた養護学校のスクールバスにはこのショルダーフォンがあった。
でも、このショルダーフォンはよっぽどのことが無い限り使わないようにと運転手さんにお願いしていたそうです。
料金がとても高いので。
何のために搭載されていたのだろうか。
さて、話を戻すと、この解説の続きとしてこんな事が書いてあります。
その切なさと儚さは現代人が失ってしまった感覚だろう。なんとか間に合うように一生懸命走る牧瀬里穂、それは我々現代人が失った相手を思いやるという根本的な気持ちの現われなのかもしれない。
不便であるけれども、それなりに豊かな気持ちを持っていた時代のように思います。
じゃあ、30年前に戻れというのか、といわれるとそうは思いません。
以前30年前の世の中をこちらで紹介しましたね。

支援技術としてのICTを活用することで、意思が読み取れないと思われていた人が情報を発信することができるようになりましたし、病院内に入って外部とのコミュニケーションを取ることが難しかった子どもたちが、社会とつながるツールになってきた。
なので、私はICTの力は偉大だと思っています。
ですが、ただ単に礼賛してばかりでもいられない。
以前伊藤さんがポランの広場でこんな事を書いています。
これとは、ちょっと違うけど障害のある人たちというのは私たち、一時的な健常者と違って様々な制約を受けている。
すると、その制約の中で ”思索” している時間がある。
いまほとんどの人は、ちょっとした隙間の時間があればスマホを見ている。
物思いにふける,という時間も失われているかもしれません。
しかし、障害のある子どもたちはそんな気軽にスマホを見ることが出来ない人もいます。
なので、出来るようにしようという考えもあんだけど、私はそうではなくて、彼ら学ぶことが私たちにある気がするんです。
どうしても
できること
が素晴らしいと考えます。
でも、できないことに意味があったり、そこから学ぶことが大切なんじゃないかと。
再度書くけど、だから障害のある人は制約があっていいなんてけっして思いません。
彼らができることを増やす活動は続けたい。
だけど、私たちが何でもかんでも便利になることを望む前に、ふと立ち止まって不便さって何なのかなって考えることが大切だと思います。
冷蔵庫も電子レンジも無い、大学の借り上げている安アパートにいながら不便さって何だろうって考えました。
こちらの記事は、2019年12月19日にこちらに掲載したものからの転載です。

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