
久々の板倉さんの本の紹介です。
過去記事だと

なんてのを書きましたね。
さて、この本は主に中学生ぐらいの子供向けの本です。
しかし、書かれていることは学問の本質を考えるとても素晴らしいもの。
とても興味深かったのは最後のところに掲載されている寺田寅彦の「科学者とあたま」に対する板倉さんの論述。
ここでは「頭のよい人」と「頭の悪い人」が出てくる。
寅彦は「頭のよい人」とは「あまりに多くの頭の力を過信する恐れがある」としている。
そのうえで
「頭の悪い人」は「頭のいい人が考えて、<はじめからだめにきまっているような試み>をいちからいっしょうけんめいにつづけている」としている。
なので、駄目なのかと思うとそうではなく
「やっと、それが駄目とわかる頃には、しかしたいてい何かしら駄目でない他のものの糸口を取り上げている。そしてそれは、その、初めから駄目な試み>をあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合もすくなくない」
とあり、「悪い人」だからそこ、解決につながる道を見つける可能性もある。
ここで板倉さんは脚気の研究について言及している。
脚気の研究では森鴎外をはじめとする優秀な医者が「脚気菌」があるとして、それを見つけることに躍起になり、ビタミンの欠乏について理解することをせず、大きな間違いがあったことを紹介している。
この当時、異説を持つ人を「頭の悪い医者たち」として弾圧したそうである。
板倉さんは、こうならないためには
もともと科学研究というものは、研究者個人の頭だけでなく、科学研究を行う雰囲気に左右されることが大きい。
と書いている。
これを読んで思うのは、「頭のよい人」は自分の頭で考えたことと事実が違っていても、その事実を受け止められず否定したり、見なかったことにするのではないかということである。
この、「なぜ学ぶのか」には、後進国としての日本が西欧の学問を学ぶことで追いつき追い越せで、成功した時代を過ぎ、先進国になったにもかかわらず、教育の場面において、まだ覚えることや既存の知識を得ることを重要視している、今の教育の在り方への批判があるのではと思うのです。
そうした考えでは、新しいことを生み出すことは難しく、目の前の課題を解決できない。
そんなことを感じます。
私のお気に入りの植松さんがブログでこんな記事を書いています。
この中で教育のことが語られているのですが、その際にもただ単なる知識の伝承ではなく、自分の頭で考えられる子供を育てる教育がとても重要ではないかと思うのです。
そんな意味では
「頭がよくなければならないし頭が悪くなければならない」
と私は思います。
この板倉さんの本はこちらから購入しました。


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